2006年9月8日金曜日

SOME FANTASTIC PLACE

昨日は長野に出張で、あまくみていたら長野新幹線は超混みで座れず、仕方がないのでデッキにぺたんと座ってグレンのツアー前にグレンに気持ちをいれようと「SONG BY SONG」を読みはじめたら、お尻が痛くなってしまった。で、またもや本に入り込んでしまった。あの本は、やっぱりすごい。

そして、なんとかアーテイストとしてのグレンとクリスを理解しようと悩むのがつらい・・といえばつらいし、おもしろい(興味深い)と言えばおもしろいし、まぁこれが私のような仕事をしている人間にとっては醍醐味と言えるんじゃないか、と思いつつも素直に幸せな気持ちにはなれない。まだまだ修行が足りないなぁ、私も。

さて、誰もが認めるスクイーズの最高傑作。一番最初に「SONG BY SONG」のこの歌の部分を読んだ時はやっぱり泣けてしまった。まず歌詞が素晴らしい。クリスは「この歌詞はペンが紙を離れることなしにいっきに書かれた」と説明している。

「SOME」のこういう使い方は、学校英語じゃあんまり習わなかったように思う。アルタンのキーラン・トゥーリッシュは私を褒める時に必ず「You're some girl!」と言ってくれるんだけどね(笑)。日本語にするとどうなるのかなぁ。「たいした子だね!」とか、そんな感じ? 「ちょとした」とか「けっこうな」(どちらも良い意味)みたいな感じ? それが「FANTASTIC」っていう最上級の言葉と繋がって「どっか本当に素敵な場所」みたいなニュアンスになる。亡くなった人が、どっか別の場所にいるっていうアイディアが西洋人っぽい。

亡くなるとか、死ぬとかいうことで辛いのは、やっぱり残された人たちが「その人とはもう一緒にすごせない」という事を寂しがる部分だと思う。ジョン・レノンのドキュメンタリー「イマジン」で、ショーンが「もう父と遊べなくなるのがつらい」と証言していたのは、けっこう沁みた。

もしかしたら死んだ本人にとてみればそっちの方が楽な場合もあるし、幾ら悲惨な死をとげたとしても、どんなに若くして死んでも、その人の人生が良くなかったとは絶対にジャッジできない。死を持って、一応その人の人生は完結され、そこに評価が下るのかもしれないが、それにしても残された人は、もうその人と一緒に時間を過ごせなくなるから、やっぱり寂しいわけだ。

「その時がきたら、彼女が僕を案内してくれるだろう」みたいな下りは本当に泣かせる。きっととっても素敵な人だったに違いないね。グレンも痩せてて、すごく可愛かったから、すごく絵になるカップルだったんじゃないか、と思う。(ちなみにスクイーズのアーカイヴHP、Packet of treeに当時の二人の写真があるんだけど、これがめっちゃくちゃ素敵)

マキシンは、ミドルクラスの出身で、どうもグレンとクリスはお育ちの悪い(笑)自分たちが、そういった女の子とつきあうことについて、おもしろがっていたフシがある。 でもマキシンの家は、とってもリベラルで、グレンとクリスの音楽活動についても、ものすごく理解のあるファミリーだったようだ。かつクリスによると、グレンと別れた後のマキシンは、ものすごくインディペンデントな女の子になっていったらしい。なんか、ちょっと分かるよな、そういう年ごろの恋愛と、女の子の成長・・っていうのがね。

お葬式にはクリスとジュールズが参加して、ジュールズはピアノを弾いたのだそう。グレンはツアー中で、お葬式には参列できなったらしい。

野崎洋子